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2016年01月24日

行商日記

行商日記 第8回

行商面接の二日目。
この日は海士町の生産現場を見せて頂くスケジュールでした。

宮崎雅也さんのナマコ工場、隠岐牛の放牧場、さざえカレーの加工場、
最新の冷凍システムであるCAS工場などを見学させていただきました。

そして、日本名水百選である天川の水が流れ込む海士町の保々見湾に到着。
この美しい海の前で、ぼくは衝撃的な出会いをすることになります。

目の前にあらわれた子は「ハルカ」という名前でした。

みずみずしい容姿とはちきれんばかりにグラマーな肢体。
無邪気さとかすかに漂う大人の色気がとても魅惑的に感じられました。

「好きになってしまうかもしれないな」と一目惚れに近い感情を抱き、
ぼくは千葉にいる妻の顔をチラリと思い浮かべます。

と、その時、大脇さんという海士町の男性が現れ、
ハルカさんが身にまとっているものを鋭利なナイフで切り裂き、
ぼくの目の前で一気に脱がせ始めました。

「え?こんなところで?」

と思う間もなく、ハルカさんは一糸まとわぬ白い肌を露わにします。
その姿は、大自然が育んだ生命の息吹を感じさせてくれるほどに美しいものでした。
そして、ハルカさんがぼくを見てこう語りかけたような気がしました。
「ねえ、佐藤さん、好きにしていいのよ」と。

胸の鼓動が急速に高鳴り、ぼくはハルカさんに触れたい衝動を必死に抑えていました。
おそるおそる大脇さんの顔を覗くと、「どうぞ」という微笑を浮かべています。

ぼくは周りの人々の視線を気にしながらも、
意を決して中指でハルカさんの身体をくねらせ、
その豊満な肢体を一気に口に頬張りました。

「 !!!」

身体に電流が走り、細胞が歓喜の声を上げ、すべての時が止まったような衝撃。
ハルカさんの美味しさは想像を超え、至福のあまり言葉がありませんでした。

海士町のブランド岩がき「春香」。ぼくはこの日、春香さんに永遠の愛を誓いました。
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文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年01月16日

行商日記

行商日記 第7回

フェリーが別府港(西ノ島)に到着する。
ここから菱浦(海士町)に行くには、内航船に乗り換えなければいけない。

西ノ島から海士町へは内航船で5分ほど。
内航船の出港後、運賃の300円を船員さんが歩き回って回収する光景は、
とてもアナログな感じで、島の人のあたたかみを感じさせてくれました。

時刻はすでに18時頃で、あたりは真っ暗になり始めています。
大型バイクのようなエンジン音を鳴らして暗い海を走る内航船は、
何となくハーレーを彷彿とさせ、
ぼくは映画のイージー·ライダーを思い出していました。

そして、海士町の灯りが徐々に近づいてくる。
都会にはない安らぎを与えてくれる町の灯り。
エンジンの音が鎮まり、ゆっくりと船が菱浦港に着岸する。

港には仕事帰りの方や、船を待つ高校生たちの姿がチラホラと。
その中に「海士町観光協会」という紙を持った青年が一人立っていました。

「海士町へようこそ」と声をかけてくれた青年のとてもきれいな目。
彼の名前は青山敦士くんで、3年前に海士町にIターンしたとのこと。

「若い移住者が増え、何かが起こり始めている島」というフレーズが頭をよぎり、
ぼくは青山くんの澄んだ目を見ただけでも、海士町に来た甲斐があったな
と感じました。
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そんな折、パチッとぼくの頭の中で、「何か」のスイッチが切り替わりました。
そして、島の色彩が今までにはないほどリアルに目に飛び込んできます。

緑は緑、青は青、黒は黒というように、とてもはっきりと。
それは、白黒テレビがカラーテレビに変わった瞬間のようでした。

その瞬間、ぼくはここで働くことになるかもしれない、
という予感が確信に変わりました。
でも、とか、もし、とか可能性の接続詞は一切排除され、ごく当たり前のこととして、
ぼくは海士町と関わることになる、という確信に。

ちなみに、この時に行商の面接に来たのは、日本全国から総勢10名。
年齢も職業も住所もみんなバラバラで、フェリーで見かけたミニスカートの
女の子は小豆島出身ということでした。

その翌日、衝撃的な出会いがぼくを待ち受けていました。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年01月08日

行商日記

行商日記 第6回

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出港後、ゆっくりと霞んでいく境港をデッキの上で眺めながら、
ぼくはまだ見ぬ海士町に思いを馳せていました。

どんな場所なんだろう。どんな人が住んでいるんだろう。
そして、どんな生活を送っているんだろう。

大学院生の頃、神戸から上海まで船で行ったのですが、
その時よりも心境的には遠く、そして魅惑的な土地へ行くような陶酔。

出発前にあったささやかな不安は境港を離れるにつれて
きれいになくなり、ただただ到着が楽しみでした。

フェリーの中はほとんどがご年配の方ばかりでしたが、
一人だけ、ミニスカートをはいた二十代の女性がいました。

服装もどこか垢抜けていて、スラリとしたスタイル。
ぼくは直感的に「この人も行商の面接だろうな」と感じました。

後日、その子とぼくとが行商人の採用に至るのですが、
この時にはまだ知る由もなく、船内で話しかけることもありませんでした。

出航してから2時間が過ぎた頃。
ぼくは船内にあるゲームコーナーへ。

ゲームは、麻雀とシューティングゲームのみ。
戦闘機が敵を倒すゲームを小学生低学年くらいの男の子がやっていました。

麻雀ゲームをやろうかやるまいか逡巡していると、
ふいに男の子が「いいよ」と言って、ゲームの席を譲ってくれました。

しかも、席を譲ってくれただけではなく、
次のステージに進んでいるゲームをぼくにプレゼントしてくれたのでした。
慌ててゲームに向かうぼくと、後ろでぼくのゲームを見つめる男の子。

もしかしたら、この子にゲームのプロと思われているのかもしれない。
それはマズイと思ううちに、あっけなくやられて画面には「GAME OVER」の文字。

男の子は「なあんだ」と言って、ゲームコーナーを去っていきました。
がっかりさせたのは申し訳ないけれど、すねた男の子の顔が少しだけ息子に似ていました。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2015年12月26日

行商日記

行商日記 第5回

羽田空港発、米子行きの便は朝の6時55分だった。
不安と緊張と少しの期待とが入り混じった曇りがちな朝。

自宅から車で羽田空港に向かう間、ラジオでは
ローリングストーンズの特集をしていました。

普段はロックとか聞かないけれど、
この日、ラジオから流れてきた「ブラウン·シュガー」には
とても勇気づけられたのを覚えています。

ミック·ジャガーの余韻に浸りながら飛行機に乗り米子空港へ。
さらに、バスで鳥取県の境港へと向かう。

境港のバスターミナルには、NHKの朝の連ドラに
「ゲゲゲの女房」が決まったという垂れ幕が大きく飾ってあり、
水木しげるさんと境港との縁が深いことを知りました。

そして、生まれて初めて乗る島へのフェリー。
乗船時間はおよそ3時間30分。

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フェリーの切符を買おうと窓口に行くも、
行き先には見慣れない地名がたくさん並んでいる。

菱浦、別府、西郷。

行き先は島の名前ではなく、港の名前が書かれていて、
正直、どこで降りれば良いのかさっぱり分からない。
さらには、乗船名簿的な用紙を提出しなければならず、
まるで海外に行くみたいだなと感じた。

フェリーの中は、特等室、一等室、二等室と分かれているのですが、
大体の人は二等室(だだっ広いじゅうたん敷きのリビング)に
寝っ転がっている。

ぼくも周りの人に習い、棚に置いてある枕を持って
じゅうたんの上に寝転んだ。

汽笛の音がする。
いよいよ、隠岐·海士町へ向けての出航である。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2015年12月17日

行商日記

行商日記 第4回

はじめての「秘密」を抱えてから二週間後、一通のメールが届いた。
「面接を行うので、二泊三日で海士町にお越し下さい」
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もはや奥さんに黙って面接に行けるはずもなく、
ぼくは叱られた子供のような卑屈な目で奥さんに話を切り出す。

「隠岐に行こうと思うんだけど」とぼくは話を切り出した。
「長い話?」と奥さん。
「場合によっては」とぼく。

エプロンで手を拭きながら、奥さんはリビングの椅子に座る。

「そういえば、前も隠岐がどうのって言ってたよね?」
「うん、実は仕事の面接で行くことになったんだ」
「仕事?今の仕事はどうするの?」
「決まったら辞めることになると思う」

フゥーッと、肺の空気をゆっくりと絞り出すような深くて静かな
ため息を奥さんがつく。心なしかリビングの空気がひんやりした気がする。

「ひとまず、今の状況は理解しているのよね?」と奥さん。
「出産前の大変な時期という状況は理解してる」とぼく。
「今じゃなきゃダメなの?」
「おそらく。今じゃなきゃダメだと思う」

今度は、フゥッと、先ほどよりも短いため息をつく。
心なしかリビングの空気が凍り始めた気がする。

「好きにしなさい。あなたの人生なんだから」

奥さんが立ち上がり、台所で料理をし始める。
口には出さないけれど、言いたいことは痛いほど分かった。

ぼく自身が夢見がちな性格であることは重々承知しているし、
出産前のタイミングで仕事を変えるのが最悪というのも承知している。
でも、今じゃなきゃ間に合わないんだという「予感」だけが切り札だった。

おそらくは奥さんもこの「予感」に賭けようとしてくれたのだろう。
次の日の朝、テーブルに一通の封筒が置かれていた。
封筒には「旅費」と書かれていた。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2015年12月13日

行商日記

行商日記 第3回

求人広告で「海士町」の名前を知ってから数日間、
ぼくは行商をやっている自分の姿を想像し続けていました。

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寅さんにあやかるべく柴又をウロウロしたり、
露店のおじちゃんに商売の厳しさの話を聞いたり。

そもそも、島根県にある海士町観光協会に就職するとなったら、
千葉で家族と一緒に住むことができるのだろうか、という
根本的な疑問と不安を抱えたまま、応募を決めかねていました。

夕飯後のリビングで、ぼくは奥さんに尋ねてみます。

「ねえ、隠岐って知ってる?」
「隠岐?島根県の?」
「すごい、知ってるんだ」
「歴史の授業で習った気がする。承久の乱とかで」

さすが京都大学出身。
受験科目の内容は今もなお頭に残っているのだろう。

そこで、ぼくは軽いジャブを打つ。
「隠岐に行ってみようかなぁ」という独り言のようなジャブ。

奥さんはきょとんとした表情を浮かべ、
「あれ?島が好きなんだっけ?」とぼくのジャブを軽くいなす。

そして、出産前の大変な時期に、こいつは何を言い始めるんだろう、
という防御のガード体勢を奥さんはもそもそと取り始める。
その防御の壁を崩すことは不可能である。昔はもちろん、今もなお。

「子供が生まれたら、一回行ってみたいなと思ってさ」とぼく。
「そうなんだ、ハハハ(乾いた笑い)」と奥さん。

カーン、と頭の中で1R終了のゴングの鐘が鳴る。
序盤の様子を見るだけだったけど、ぼくとしては上々の立ち上がりだ。

そして、1R終了のゴングと同時に、ぼくは奥さんに黙って応募することに決めた。
だって、受かるかどうかも分からないし。
結婚後、はじめてぼくは「秘密」を抱えたのである。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2015年12月11日

行商日記

行商日記 第2回

今思えば、2009年の個人的なキーワードは「不安」でした。
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妻が第二子の出産を数ヶ月後に控えた不安。
広告の仕事(前職は広告業でした)に対する不安。
そして、食肉偽装や産地偽装などによる食全体への不安。

広告の仕事は新しい案件が次々と舞い込み、
毎日が刺激的で楽しい仕事ではありましたが、
一つ一つの仕事を終えた後にやり場のない
乾いた思いが心の中に少しづつ溜まっていたのを覚えています。

そんな諸々の不安を抱えた、2009年2月15日深夜1時。

家族が寝静まった自宅の二階で、ぼくは求人サイトを見ていました。

何か変わった仕事はないかなと思い、
検索条件の「職種」「勤務地」「給与」などの条件を
すべて「その他」にしてクリックすると
たった一件だけヒットした仕事がありました。

その仕事のタイトルは「行商人募集」。
応募先は、島根県隠岐郡海士町の観光協会。

「かいしちょう?」

町の呼び名もままならない状況でしたが、
「行商」という単語を見た瞬間、当時抱えていた色々な不安が
一気に雲散霧消し、快晴のような気持ちになったのを今でも覚えています。

そして海士町を「あまちょう」と読むこと。
島根県の日本海沖に浮かぶ小さな島であること。
若い移住者が増え、何かが起こりはじめている島であること。

ぼくは明け方まで海士町のことを調べ、
ほんの少し「離島」への扉を開きはじめていました。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2015年12月05日

行商日記

行商日記 第1回

神楽坂店がオープンして2ヶ月。
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雑誌や新聞やWEB媒体など、色々なメディアに
取材をしていただく機会が増えてきました。
その際によく聞かれるのが、
「離島キッチンの誕生の経緯を教えてください」という質問。

この質問は簡単なように思えるのですが、考え込むと実に難しい。

どうしてぼくは離島キッチンを始めたのだろう、と自分自身の過去や
当時の考え方、社会状況や家庭環境などを振り返ると、
頭の中がぐちゃぐちゃしはじめるんですね。

そして、しどろもどろになりながら答えを探している間、
記者さんたちは、ちょっと困ったような、むずがっている子供を
あやすような表情をうかべるという状況が多々ありました。

ちなみに、ぼくには子供が三人います。

もし誰かに「お子さんの誕生の経緯を教えてください」という質問を
されたとしたら、きっと同じように戸惑ってしまう気がするんですよね。

まあ、何を言いたいのかというと、
誕生の経緯はうまく答えられないけれど、
離島キッチンも実の子供と同じように、
現在進行形で育てているということをお伝えしたかったまでで。

離島キッチンの誕生は2009年。
舞台は、島根県隠岐郡海士町(あまちょう)。

ぼくと海士町との出会いは、今から6年前のとても寒い冬の夜でした。

文  佐藤 喬
写真 幸 秀和