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2016年06月22日

行商日記

行商日記 第18回

人生最初の行商をフィーバーで終わらせたぼくは機嫌よく千葉の自宅に戻ります。
ちょうど二人目の子供が生まれる直前ということもあり、
ぼくは今後の行商の企画をじっくりと考える期間にあてたいと観光協会にお願いをして、海士町を離れることにしました。
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さて。

行商の企画に関して、頭の中はまったくの白紙状態。
面接の時にしゃべっていたプランもいったん記憶の外にはき出して、
心の中に沸き立つ「何か」が出現するのをじっと待つことにしました。

一週間が経過。さてさて。

小手先のテクニックみたいな微粒子状の企画がボウフラのように現れては消え、
ぼくは祈祷師が雨乞いをするかのような心持ちでしたが、一切雨の降る気配はなく。
頭の中は白紙の空で埋め尽くされ、雲ひとつないノーアイデア状態の脳内天気が続きます。

そんな折。

2009年5月29日に娘が誕生。しかも丑(うし)年。
肉年、御肉日生まれの、丑年とは黒毛和牛の女神の降臨かもしれない。
焼肉とビールで乾杯、おむつ買わなきゃ、粉ミルクはどこのメーカーにしよう?

てんやわんやで一ヶ月が経過。さてさてさて。

そうだ、一度原点に戻ろう。海士町の面接時に話題に出たキッチンカーをスタート地点に置き、そこから企画を膨らまそう。車体にさざえの殻をびっしりと貼り付け、磯の香りを都会にお届け。いや、ダメだ。そんな貝殻だらけの車なんか気味悪がられるだけだろう。それに道路にさざえの貝殻が落ちたら、忍者の撒菱(まきびし)みたいに他の車をパンクさせてしまうかもしれない。

あるいは海水の入った水槽を車に設置し、島の鮮魚をご家庭に直送。いや、そうすると釣った段階で水槽に入れなくてはいけないから、島と本土との往復になってしまう。車をフェリーに乗せるとしたら莫大な経費がかかるだろう。子供たちには走る水族館みたいなキャッチコピーで人気が出るかもしれない。でも、魚たちには相当なストレスがかかるだろうな。

さてさて、さてさて。

頭の中では空回りの企画が実を結ぶことなく生まれては消え、徒労に終わることが分かっていながらも、ぼくは終わりのない壁打ちテニスのような妄想をし続けます。そんなこんなで2ヶ月が過ぎた頃、突如として脳内天気図にアイデアの兆しである曇りマークが点灯しはじめました。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年06月05日

行商日記

行商日記 第17回

ゴールデンウィーク期間中、境港で販売した岩がきの売上は総額100万円。
岩がきの匂いが身体中にしみつき、
気を抜くと境港の野良猫たちがすり寄ってくるほどでした。
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ぼくは疲弊した身体を労わろうと、島根県の玉造温泉に向かいます。
出雲国風土記に神の湯と称えられ、日本最古の温泉と言われる玉造温泉。
神聖なるこの地に、ぼくは身体に染みついた岩がきの匂いとともに降り立ちました。

浴衣姿の粋な若いカップル。
老後のひとときを過ごす素敵な夫婦。
そして、野良猫にまとわりつかれるぼく。

明らかに神聖な温泉地の風紀を乱しかねないぼくの存在は
野良猫には大人気でしたが、観光客の方々には不評だったに違いありません。

「絶対きれいになってやる」

昔、こんなフレーズのCMがありましたが、まさにぼくの心境もこんな感じでした。
今は岩がきの匂いで猫に大人気だけれども、温泉に入りさえすれば、
カランコロンと浴衣の似合う粋な人間に仲間入りできるはず。
そんな淡い期待を胸に、ぼくは明らかに場違いな高級旅館へと向かいました。

「あれ、お客様、岩がきをお持ちですか?」

そんな心の声が聞こえるフロントをそそくさと通りすぎ、
ぼくは脱衣所に向かいました。
まだ早い時間帯ということもあり、大浴場にいるのはぼく一人だけ。

頭から足のつま先まで丁寧に身体を洗いまくり、
ぼくはシャボンの妖精になった気分でした。
さらには大浴場でのご法度とも言える平泳ぎやクロールすら優雅に披露。

そして温泉から脱衣所にあがり、ぼくは鏡の前で耳かきをしました。
すると、耳の中でジャリという音がします。

なんだろうと思って見ると、耳の中から岩がきの貝殻の破片が出てきました。

「·······」

理由はよく分かりませんが、この時、ぼくは何故か感無量になり、涙を流してしまいました。耳から出てきた岩がきの破片に「お疲れさま」と言われたような気がしたのかもしれません。

ひとしきり泣いた後、
ぼくははじめて岩がきに「ありがとう」と心を伝えることができました。

文 佐藤 喬
写真 小林 理恵子

2016年06月02日

行商日記

行商日記 第16回

販売初日、用意した岩がきの数は100個。

朝から夕方まで販売する予定だったので、
大体1時間に10個くらい売れたらいいなという、
道端で水たまりをチャプチャプするようなゆるやかな気持ちで
ぼくは販売に臨んでいました。

「すいません、岩がきふたつください」

最初のお客様は大阪から遊びに来たという20代のカップル。
隠岐ってどこにあるんですか、とか、岩がきって初めて食べるんです、とか
和気あいあいとした会話を繰り広げているうちに、自然と行列が出来はじめた。

その行列は、夕方の仕事終わりの土砂降りのように激しく唐突で、
瞬く間に30人ほどがズラリと岩がきを求めて並び始めている。

やばい、この状況は想定していなかった。
ぼくの笑顔は急速に引きつり、震える手でバーベキュー台に岩がきを乗せ始める。

岩がきを開けるのが慣れていないとか、行商をするのが今日はじめてなんです、
という甘い言い訳はこのズラリと並んだ行列のお客様には一切通用しない。
並んでいる全員がぼくの岩がきを開ける手元を眺め、ニヤニヤしている気がした。

こういう時、人間は未知なる力を発揮するものである。

ぼくは、岩がきにありがとう、ありがとう、ありがとうと高速の念仏のように唱え、
岩がきの貝柱の位置も、もはや透視できるかのように察知する能力を開花し始めた。
火事場の馬鹿力とはこういうことを言うんだな、とぼくは悟りの境地に入りはじめる。
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こうなったら、後はノリノリである。

岸和田のだんじり祭りの屋根の上に乗っている人のごとく、
ぼくはお祭り気分で岩がきを開けまくり、約1時間ほどで100個の岩がきを捌ききった。
空手の百人組手のように、一人一人のお客様と対峙し、
大きな事故もなく岩がきを販売しきった感動と心地よい疲労。

「もしかしたら、販売の天才かもしれない」

そんな不遜な思いが頭をよぎるも、この半年後、
ぼくは精神が崩壊するほど手痛い思いを味わうことになるとは
知る由もありませんでした。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年05月14日

行商日記

行商日記 第15回

岩がきと悪戦苦闘しているぼくの目の前に現れたのは、海士町とつながりのあるSくん。
カクカクシカジカと今置かれている現状を伝えると、「俺、開けられるよ」と一言。

左手に岩がきを持ち、右手にカキ用ナイフを持ち、栓抜きでビールの蓋を開けるように
Sくんはいとも簡単に岩がきの口を開いた。

「すごい、魔法みたいだ」
「簡単だよ。貝柱を切ればいいんだから」
「貝柱ってどこにあるの?」
「大体ここらへんかな」

Sくんが岩がきのお腹の右下あたりを指差している。

ぼくも見よう見まねで、岩がきの右下あたりに狙いを定めてナイフを突き刺す。
でも全然コツがつかめず、何度も突き刺しては中身がぐちゃぐちゃになってしまった。

ぼくは新しい物事を始めるとき、定石を重んじる傾向がある。
要は取扱説明書的な、理路整然たるプロセスに沿って物事を学習する。

「ねえ、きれいに開けるコツというか、方法はないかな」とぼくはSくんにたずねる。
Sくんは、ちょっと考えてこう答えてくれた。

「開けるときにさ、岩がきにありがとうって思うんだよ」

この答えを聞いたとき、正直、Sくんにからかわれているのかなと思った。
そういう抽象論ではなくて、ぼくは具体的かつ即効的な技術論を聞きたかったのだ。
おそらく、懐疑的なぼくの表情を見てSくんも何事かを察したのだろう。

「大丈夫、騙されたと思ってやってみて」とSくんがぼくをうながす。

ぼくはスプーン曲げをする少年のように岩がきを持ち、
「ありがとう、ありがとう、ありがとう」と呪文のように唱えて
岩がきにナイフを刺してみた。

すると、さっきまで何回刺しても開かなかった岩がきが、今回は一発で口をひらく。

「すごい」とぼくはつぶやく。
「でしょ。岩がきだって生き物なんだから」とSくん。

スーパーで買い物をする時、飲食店で食事をする時、
ぼくは食材が生き物であるという考え方をキチンとしないまま、
今まで生きてきてしまったなとこの時、恥じる思いがしました。

そして、販売開始の鐘が水木しげる記念館前に鳴り響きます。
後日「ゴールデンウィークフィーバー」と名付けられた華々しい行商の幕開けでした。
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文 佐藤 喬

2016年05月01日

行商日記

行商日記 第14回

鳥取県境港の朝はコーヒーではじまる。
わけではないですが、ぼくは温かいコーヒーをすすりながら、
炭に火をつけていました。

場所は、境港にある水木しげるロードの一角。
水木しげる記念館の館長さんの粋なはからいで最高のスペースを貸していただき、
ぼくはここで岩がき春香をバーベキュー台で焼いて販売する行商を
始めることにしました。

ゴールデンウィーク中の境港への来客数は、約24万人(鳥取県内で第一位)。
この人数に対して、ぼくは岩がきを何個用意すればよいのか全く分からず、
とりあえず適当な感性を働かせて、100個の岩がきを仕入れることにしました。
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炭に火が付き、ぼくは岩がきを試しに網の上に置いてみました。
お恥ずかしい話ですが、バーベキュー台で岩がきを焼くのはこれが初めてで、
まあ、ハマグリみたいにパカッと勝手に口を開くだろうとタカをくくっていました。

3分経過。
岩がきはピクリとも動きません。

5分経過。
岩がきはピクリとも動きません。

10分経過。
岩がきはピクリとも動きません。

あれ、おかしいな、と思い、岩がきを手にした瞬間、
ピュッと高熱の岩がきの汁がぼくの手にかかり、
ぼくは口を開かない春香への憤りと、事前準備をしなかった自分への呪詛と、
見知らぬ土地で火傷をした哀しさとで、いたたまれない気持ちになってきました。

販売開始まであと30分。
まずい、このままじゃ100個どころか1個も売れないんじゃないかと焦りはじめ、
焦れば焦るほど、岩がき春香はぼくをあざ笑うかのようにピクリともしません。

半分泣きそうになり、春香は稀代の悪女かもしれない、と思った矢先に
何処かからぼくを呼ぶ声がしました。

「あれ、佐藤くん、何やってるの?」

ぼくはその人の顔を見た瞬間、トイレに神様がいるように、
行商にも神様がいると実感しました。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年04月21日

行商日記

行商日記 第13回

保々見湾が目の前にひろがる岩がき春香の生産現場。
ぼくは海士町からお借りした軽自動車の箱バンで朝8時に現場へ到着しました。

建物内はテニスが出来そうなくらいの広さで、岩がきを入れておく大きな水槽が
きれいに三列にならび、浄水が循環するシステムになっていました。
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仕事の流れとしては、大まかに「出荷」「水揚げ」「岩がきの手入れ」の三種類。
その中からぼくには「出荷」と「岩がきの手入れ」を割り振っていただきました。
岩がき春香は、SS、S、M、Lの4種類のサイズがあり、
出荷の際にはズラッと並べられた発注書通りに発砲スチロールに箱詰めしていきます。

朝の出荷は戦場のような忙しさで、「箱大、M10、L10」「箱小、SS20」という声が飛び交い、丁寧に箱詰めしては「東京」「大阪」「名古屋」など
全国の配送先が書かれたスペースに積み上げていきます。

ぼくが出会った頃の春香は、
まだセーラー服におさげ髪のようなあどけない感じでしたが、
出荷の際には、唇に赤い口紅をキリッとひいた大人な女性の佇まいに感じられました。梱包された箱がトラックの荷台に乗せられるときは、
なんとなく昔の彼女が結婚してしまうような、
一抹の悲しみを感じたのを覚えています。

慌ただしい出荷作業が終わると、一服休憩。

「にいちゃん、どこから来た?」
「彼女はいるのか?」
「飯、作れるのか?」

現場のおじさん、おばさんたちから温かい質問攻めを受けつつ、
食材のひとつひとつが家庭に届くまでには、さまざまな人の力が背景にあるんだなと、当たり前の事実を初めて肌で実感できたことに喜びを感じていました。

そして、フジツボ。
春香は三年間も海の中にいるので、その間におびただしい数のフジツボが付着します。
フジツボたちを定期的に落とすことで、ストレスのない美味しい牡蠣に仕上がります。

何万、何十万のフジツボをワイヤーブラシで落とし、春香を磨き上げる情景は、
江戸時代の銭湯でお客様の背中を流す三助のような感じでした。

そんな一ヶ月が過ぎ、GWの間、ぼくは期間限定で行商に出かけることにしました。
行先は、鳥取県境港の水木しげるロード。「売れるのかな?」という不安を抱きつつ、ぼくは境港行きのフェリーに乗り込みました。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年03月31日

行商日記

行商日記 第12回

海士町観光協会には二人の「青山」がいます。

一人は北海道出身で、好青年の青山くん。
もう一人は、海士町役場の課長さんで、観光協会の事務局長を兼務している青山さん。

観光協会勤務初日の4月1日、辞令をいただいた後、
ぼくは上司にあたる青山さんと一緒に車に乗り、海士町を案内して頂きました。
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車の中で、ぼくは青山さんから島の現状について色々と話を伺いました。

島への観光客が右肩下がりで減ってきていること。
旅館のおかみさんの高齢化が進み、宿を閉める件数が増えていること。
公共事業が減り、町全体で稼いでいかなくてはいけないこと。

現状だけを見ると気持ちが暗くなりそうなことが多いですが、
役場の職員の方々が給料をカットして移住者を募る資金に充てていた話や、
ソニーやトヨタなどの大企業を辞めて移住してきた若者がいる話など、
明るい要素もたくさんある島だな、と感じました。

そして、行商について今後のビジョンを伺いました。

「実際のところ、行商って何をやるんですか?」

青山さんはハンドルを握りながら、ぼくの顔をチラリと見ました。
そして、ニヤリと意味深な笑みを浮かべ、こう言いました。

「それは君が決めることでしょう」

この言葉を聞いた瞬間、ぼくはパーッと視界が開けるような感覚にとらわれました。
海に立ち込めた暗雲から一筋の光が差し込み、
海面がキラキラと輝くような爽快な感覚。
宝船が水平線から現れ、天女や鯛やヒラメの舞い踊りが頭の中に繰り広げられました。

そして、ぼくは青山さんに「ありがとうございます」と丁寧にお辞儀しました。

やがて、車は保々見という地区に到着。
ここは、かつて岩がき「春香」とはじめて出会った思い出深い地で、
ぼくは1ヶ月間ほど、岩がきの生産現場で研修を行うことになりました。

よく分からないけれど、何となくワクワク。それが行商人初日の感想でした。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年03月21日

行商日記

行商日記 第11回

2009年2月27日、海士町にて行商人の面接。
2009年3月10日、行商人の採用通知が到着。
2009年3月31日、海士町に移住。

ぼくはスーツケースに衣類を詰め込んで、単身海士町に向かいました。
用意していただいた家は「崎」という南端の港町にあり、ここは今から800年ほど前に
承久の乱に敗れた後鳥羽上皇がご配流されてたどり着いた場所とのこと。

ぼくの住む家は平屋の木造一軒家で、かつては「崎健康センター」という名前で、
この地区の診療所のような役割を担っていた場所でした。

ぼくはひとまず、この家のことを「健康センター」と呼ぶことにしました。
家に名前を付けることで愛着が湧くような気がしたのと、
何となく自分の体が健康になるような自己暗示の期待を込めての名付けでした。

健康センターの目の前には漁港と海があり、一日中波の音が聞こえてきました。
ぼくは海を眺めながら、心の琴線をふるわせる「何か」がある場所だなと感じました。
もちろん、それは嫌な感情では決してなく、
旅情や慕情に似たセンチメンタルな感覚でした。

健康センターには6畳部屋が3つ、8畳部屋が2つの合計5部屋。
さすがは元診療所で一人暮らしには広すぎるものの、
都会では味わえない贅沢を満喫しようとぼくは各部屋に役割を与えました。

その役割とは「寝る」「食べる」「映画を観る」「本を読む」「妄想する」
という5つの役割で、そうすることで各部屋に人格が与えられたような気がしました。

今思えば。
見知らぬ土地の見知らぬ広い家に一人でいると寂しくなるので、
おそらく本能的に寂しさに負けないよう、各部屋に人格を与えていたのだと思います。

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「これからどうなるんだろう?」

800年前に後鳥羽上皇も見たであろう隠岐·海士町の海を眺めながら、
一抹の不安と期待を覚えつつ、ぼくの海士町ライフがスタートしました。

そんな折、岸壁にずらりと並んでいる蛸壺の中から一匹の小さなタコが這い出てきて、
そのまま海にくねくねと落ちていきました。

ぼくは、何となく可笑しくなり、「崎」のことが少し好きになっていました。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年03月13日

行商日記

行商日記 第10回

面接者は総勢10名。

ぼくはウコンの力を2本飲み、なかば開き直った心境で面接を待っていました。
昨夜の宴会とは打って変わり、面接の待合室に漂うほどほどの緊張感。

「佐藤さん、中にお入りください」

面接会場には5名の面接官。
昨夜ゲラゲラ笑いながらお酒を飲み交わした会長、副会長も
この時ばかりは荘厳な面持ち。

今までの仕事や大学で学んだことなどスタンダードな質問が交わされ、
最後に、「今回採用されたら、何をしたいですか?」という質問が飛んできました。

ぼくは海士町に行くまでに「男はつらいよ」を全部観ながら、
「もし自分が寅さんだったら何をするか?」という自問自答を繰り返してきました。

さらには、「もし自分が山田洋次監督だったら、どんな演出をするか?」という
行商人の演出方法も色々と考えてきました。

結局のところ「男はつらいよ」は厳しい現代社会に住む我々への応援歌であり、
寅さんは、その応援歌を奏でる道化師のような存在であることから、
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ぼくは「採用されたら、ピエロのような存在になりたいです」と答えました。

「は?」

面接会場が一瞬凍りつきましたが、
もちろん「は?」となることは承知の上。

ここから、大学との連携やキッチンカーを用いた行商など具体的な企画を述べ、
最終的には東京に住む方々に、
島から明るい風を送り込むピエロのような存在になりたい
というストーリーをお伝えしました。

ナイス、ウコンの力。
面接が終わる頃には、アルコールも抜けきり、ほどよい疲労だけが残りました。

「発表は一週間後くらいに郵送でお届けします」という説明があり、
ぼくたちは海士町の方々に紙テープで見送られ、フェリーで本土に戻っていきました。
そして、この一ヶ月後、ぼくは海士町を再び訪れることになります。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和

2016年02月13日

行商日記

行商日記 第9回

岩がき春香に永遠の愛を誓ったその夜。
行商面接の第二夜目は、島の方々&面接者とで大宴会となりました。

海士町の中村旅館の大広間にはビール、焼酎、日本酒がずらりとならび、
さらには、海の幸、山の幸がオンパレードのビバ、島の宴!

とはいえ、我が身は面接を受ける立場。
無様な酔態をさらしては選考評価に関わるかもしれない。
と、気を引き締めたのも束の間、ほどよい疲れにアルコールが入るし、
青山敦士くんと飲み交わすうちに楽しくなり過ぎるしで、一時間後には泥酔状態。

「青山くん、君はいい、実にいいよ」などと偉そうな口調ではしゃぎまくり、
「行商やろうぜ、キャッホーイ!」と学生のような酔態をさらす自分がいました。

宴が始まって7時間が過ぎた頃。
島の人も面接者も座布団を枕に寝ているような、兵どもが夢の跡の深夜二時。

そんな中、ぼくと青山くん、そしてフェリーで見かけたミニスカートの女の子の
三人で延々と酒を飲み続け、それぞれの将来の夢について語り合っていました。

女の子の名前は長松久美さんという子で、小豆島出身。
関西の大学を卒業後、東京のデザイン会社で働いているとの話でした。

「キッチンカーで全国を回るのは楽しそうだよね」とぼく。
「名前はラブワゴンみたいに、サザエワゴンですかね?」と青山くん。
「行く先々の港で誰かと恋に落ちたらワゴンから降りられるみたいな」
「商売にならないっすね~」

行商でどんなことをやりたいかを語り合っている中、
「ウチな、それよりもお嫁さんになりたいねん」と語りだす長松さん。

「行商と全然関係ねえじゃん」と二人でツッコミを入れながらも、
我が道を行くタイプのこの子は受かるだろうな、と感じていたのを覚えています。

そして、夜が更けていき、確実に二日酔いモードで布団にもぐりこむのですが、
「あれ?結局、面接っていつやるんだろ?」という根本的な疑問を胸に爆睡。
そして、翌朝。
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「これから面接を行います。名前を呼ばれたら来てください」という荘厳なお達しが。
ぼくはグワングワンする頭を抱えながら、ウコンの力に全力で頼ろうとしていました。

文 佐藤 喬
写真 幸 秀和